クラスで何人欠席したかを尋ねてみたら
拙宅の子供の学校では感染症が大流行中でございます。
今日は10人欠席した、今日は何年何組が学級閉鎖になった、と、どうも落ち着きません。
ソファでスマホをいじっている中1の娘に何気なく尋ねました。
「今日はあなたのクラスでは何人休んだの?」
「んーと、4人」
「そうなんだ、誰と誰?」
「えーと、Aちゃんと、Bちゃんと、Cちゃんと、Dちゃん」
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母は、これを聞いて、ハッとしました。。。
娘は不登校の子も欠席者にカウントした
実は、娘が最後に名前を挙げた「Dちゃん」は、不登校のお子さんです。
小学校からずっと不登校で、中学に入学後しばらくは頑張って登校していたものの、次第に休みがちになり、5月頃からはほとんど登校していません。
Dちゃんのことはわたしも小学校の頃からよく知っていて、お母さんからご相談をいただいたりもしていたもので、何かあるたびにDちゃんのことがふと思い出され、気にかかっていました。
学校に行こうと行くまいと、Dちゃんとご家族にとってベストな過ごし方が見つかるといいなあと思っていたのでしたが、、、
わたしは、娘に欠席者の名前を聞いたくせに、Dちゃんの名前が挙がると思っていなかったのです。
自分の無自覚の前提に気づいて反省!
そのことで気づいたのが、自分が無自覚に設定していた「前提」です。
わたしは「Dちゃんは登校しないのがデフォルトだ」と思い込んでいたということですね。
だから、今日の欠席者としてDちゃんの名前が挙がったときに、「あ、Dちゃんもか」と思ってしまった。。。
気づいた瞬間に、我が身を深く反省しました。。。
一方で、娘にとっては、「Dちゃんは来ないのが当たり前」ではなかった。
「今日はDちゃんが休み」という、その「今日」が毎日続いている、という感覚だったのでしょう。
我が子ながら、その感覚に感動しました。
と同時に、 娘がそんなふうに思えているのは、きっと担任の先生の在り方や、クラス運営の方針が、大きな影響を与えてくれているのだろうなと思ったことです。
人は慣れるもの
「人のうわさも七十五日」
「去る者は日日に疎し」
ということわざがあります。
これは、自分の周囲から対象が遠くなっていくと、いつの間にか気にならなくなっていくものだ、ということを表しています。
不登校という事象にも、それは当てはまります。
最初は「今まで学校に来ていた〇〇さんが今日は来ない」ことが目立っていたとしても、
いずれそれは「〇〇さんは今日も来ない」になり、
やがては「〇〇さんは学校にいない」ことが当たり前になっていきます。
慣れていくことのありがたさと恐ろしさ
この「当たり前」は、ありがたいものでもあり、恐ろしいものでもあります。
「当たり前」が、自分の生きる世界の前提をつくっていくからです。
人が物事に慣れていくのは、穏やかに生きていくために必要な仕組みです。
そうでなければ常に緊張状態を強いられて、心身が参ってしまいますから。
でも、その自然な身体の反応に流されて、「気づかないうちに慣れてしまっている」ことがあったりします。
本当は別の考え方のほうが望ましいと感じるのに、今の考え方が「当たり前」になり切ってしまったあまり、自分が落とし穴に陥っていることにすら気づかずにいるような状態です。
まさにわたしが、Dちゃんのことを、無意識に「学校にいないのが当たり前」だと思い込んでしまっていたように。。。
自然すぎて気づけない当たり前を見直そう
身体の自然な反応は、あまりにも自然すぎて、意識に上りません。
だからこそ、ときどき自分の「当たり前」を見直しましょう。
いま自分が当たり前だと思っていることは、本当に自分が行きたい世界線の考え方と合致しているでしょうか?
わたし自身も、自分ではまったく気づかないまま、自分の世界線がズレていたことを
娘とDちゃんに、ふと教えてもらった、
そんな出来事でありました。
いやはや。
娘、Dちゃん、なんなら感染症も。
貴重な気づきをありがとう。
それでは、また。
いつもあなたに明るい風が吹きますように。

