588-1 ▼ 人事採用の仕事をしていた頃
親御さんから「我が子には才能なんてない」だから世の中の役には立てない、といった意味のお話を伺うことがあります。
わたしは、才能のない人などいないと確信していますが、「才能」の定義は人や環境によってさまざまだろうなとも思います。
わたしは以前、企業で人事採用の仕事をしていました。
わたしたちの企業が重視する基準の一つは、「自社でその応募者様が能力を発揮できるかどうか」でした。
どんなに優れた才能を持った方でも、その才能を発揮する場が会社の中になければ、宝の持ち腐れになってしまいますから。
当時のわたしはその基準に全く疑いを持つことなく、採用活動に邁進していたのでしたが。
588-2 ▼ 「才能」とは何か?
身体の原理原則から物事を見るようになった今では、当時の採用活動には違和感がありまくりです。
そもそも「才能」の定義が恣意的に過ぎます。
採用活動で言う「才能」とは、企業の発展に貢献する種類の「才能」のことです。
営業力があるとか、何らかの分野に明るいとか、学業成績が優秀だとか、実行力があるとか。
そうでない部分は無視するか、すべて切り捨てていました。
時にはネガティブな評価をすることもありました。
いま思えば、「私は右利きです。右手のほうが文字を書きやすいです。だから右手はどんどん来てください。でも左手はいりません」、そんなことを言っているようなものです。
588-3 ▼ なぜ?
採用面接では、会社に貢献できない社員はいなくてもいい、という理屈が成立しています。
冒頭の親御さんが言われる「才能」も、この理屈に近い世界観でしょう。
一方、身体の原理原則から見れば、身体のどんな状態にも良し悪しはなく、ただありのままにそこにあるだけでOKです。
- 何がその人の才能なのか?
- そもそも、人は皆、能力を発揮しないといけないのか?
- 場に貢献しないと、その場の一員にはなれないのか?
- 「ただいるだけ」で現在の社会が成り立たない(ように見える)のは、なぜなのか?
かつてあまりにも一面的な価値観で採用活動を行っていた自分を深く反省しつつ、「能力」「貢献」の意義を見つめていきたいと思う日々です。
本日は以上です。
それでは、また。
いつもあなたに明るい風が吹きますように。