481-1 ▼ 「才能がない」と言うけれど
先日、「自分には何の才能もないから、うちの子にも何の才能もないんです」というお話を耳にして、ふと違和感を覚えました。
才能がある・ないと言いますが、「才能」って何だろうな?と思ったのです。
辞書には、
ある個人の素質や訓練によって発揮される、物事をなしとげる力。
物事を巧みになしうる生まれつきの能力。
などと書いてあります。
この字義でいくと、「巧みになしうる」のあたりがクセモノで、わたしたちが「才能」という言葉を使うときは、社会的に認められるとか、経済的に成功するとか、そういう目立つ結果が出せるものを「才能」と受け取ることが多いように思います。
481-2 ▼ 巧みになしうるもの、すでに巧みになしているもの
でも、わたしたちが「巧みになしうる」のは、社会的に認められたり経済的に成功したりするような事柄ばかりでしょうか?
たとえ社会的に多くの人に認められはしなくても、「巧みになしている」事柄がたくさんあるのではないでしょうか?
身体の原理原則では、その人にとって本質的なもの・根源的なものに近づくほど、その人自身には気づかれにくくなります。
心臓の動きや呼吸の一つひとつをいちいち意識しないのと同じで、本当に自然にやっていることは本人は気づきません。
才能を発揮するというと、生まれつきの特質に加えて、努力を重ねてその特質を磨き上げ、ものにするというイメージがつきまといます。
努力や苦労を伴うと、人は納得します。
「やった感」があってわかりやすいからです。
481-3 ▼ 気づかずに自然にこなしていること
一方、苦労せずに、ほとんど無意識に、自然にこなせるものは、なかなかピンと来ません。
あまりに自然で、意識にぶつからないので、「やった感」も皆無でわかりにくいのです。
こういう、「あまりにも自然で」「あまりにも当たり前で」「意識にすら上らない」ものをも、「巧みになしている」と表現しても良いのではないでしょうか。
たとえば、お母さんが子供に添い寝するとき、今その瞬間にその子たちにとって心の底から安心して眠れる時間と空間を作れる「才能」を持ち合わせる人は、お母さんだけです。
その添い寝を誰が社会的に評価するでしょうか?
誰が経済的に報いようとするでしょうか?
誰もいません。
でも、子供たちを包み込む温かな愛は、子供たちの胸にしみこみ、その人生を生涯照らす灯となるでしょう。
そんな素晴らしいことを、日々ほとんど無意識に「巧みになしとげている」お母さんの行動は、お母さんだけの「才能」と呼べるのではないでしょうか。
そのように捉えるとき、わたしたちの「才能」は、今わたしたちが考えているレベルをはるかに超えて、もっともっと豊かに繊細に、わたしたちの目の前に広がっています。
「自分には/うちの子には何の才能もない」と感じるときは、【ご本人は気づいてもいないけれど、その人が自然にこなしている、その人にしかできないこと】を、見つけてみてはどうだろうか、と思います。
本日は以上です。
それでは、また。
いつもあなたに明るい風が吹きますように。
自分の身体からの答えを知りたい方へ
あなたの現在地から過去を振り返り、あなたの得たい成果から、進むべき道をそっとご提案します。
過去から現在を見るのではなく、未来から現在と過去を見る。
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