こんにちは。三輪堂です。
面白く生きる連載、157通目です。
157-1 ▼ 療育で出会う「選べない」子たち
昨日は、なぜ「自分」がしっかり立っていることが大切かということを、「選ぶ」という場面を例にしてお伝えしました。
療育の現場では、「うまく選べない、決められない」子供たちに時々出会います。
たとえば真冬なのに半袖を着ていたり、自由時間に何をすれば良いかわからなかったり、チャレンジする場面でなかなか踏み出せなかったり。
これらは、たとえば季節感という形のないものへの理解の薄さ、感覚過敏による着衣へのこだわり、枠組みがない場面での見通しのつけづらさ、新規場面への不安、といった特性で説明ができるわけですが、この子たちがもっと適切な選択をし、柔軟な行動ができるようになれば、本人も周囲の大人たちも、今よりもはるかに生きやすくなります。
洋服をうまく選べない子は、それ以外の場面でもたくさんの「うまく選べない、決められない」とぶつかり、社会とかみ合わずに困っているであろうことが容易に想像できます。
157-2 ▼ 「なんとなく」の濃淡
ひるがえって、わたしたち大人はどうでしょうか。
昨日も書いたように、わたしたちは大体誰でも「なんとなく」物事を選ぶ力はあるものです。
実は、三輪堂の活動を始めて気が付いたことの一つが、この「なんとなく」です。
各人が持つ「なんとなく」の濃淡の度合いが、その人の生き様を大きく左右しているのだな、ということが見えてきました。
人が生きていく上で、物事を選択し、行動に移すには、「選ぶ」と「決める」の段階があると思っています。
それはたとえば、今日何を着るとか、何を食べるとかといった、比較的小さな事柄から、どこに住むか、誰と過ごすか、自分はいかに生きるか、といった、比較的大きな事柄まで、さまざまな段階の「選ぶ」と「決める」があります。
自分にとって真にふさわしく必要なものを選び、選んだその道に進むことを決める。
どちらも必要な力です。
157-3 ▼ 「選ぶ」と「決める」
選ぶ力と決める力は、どちらも備わっているのが理想ですが、そういう人ばかりではありません。自分も反省点だらけです。
色々な方のお話を伺っているうちに見えてきた類型を、ものすごくざっくりとまとめると、
決める力が強いけれども選ぶ力が弱いと、猪突猛進して失敗しがちです。
選ぶ力が強いけれども決める力が弱いと、頭でっかちになって結局は行動につながらなかったりします。
どちらの力も弱いと、迷ってばかりで行動できないことが多いようです。
三輪堂の活動の中でも、ご相談に見えた方のお話を伺う時は、この「選ぶ」をサポートしてあげるか、「決める」を後押ししてあげるか、のどちらかに帰着することが多いように思います。
「選ぶ」も「決める」も、それをやりやすくするのが「自分」なのです。
明日以降はそのあたりに触れていきますね。
本日は以上です。
それでは、また。
いつもあなたに明るい風が吹きますように。